松陰先生と松下村塾

吉田松陰先生略歴

好学の杉家に生まれる

吉田松陰先生は、天保元年(1830)萩藩士杉百合之助の次男として長門国の萩城東郊に位置する松本村(現山口県萩市椿東の一部)に生誕されました。名は矩方、幼名は寅之助。杉家は家禄26石の貧しい半農半士の下級武士で、学問に熱心な家風でした。

兵学修業

6歳の時、百合之助の次弟で、萩藩の山鹿流兵学師範を代々務める吉田家に養子に入っていた叔父吉田大助が亡くなると、その養子として家督を継ぎ、以後吉田大次郎と名乗ります。
 
兵学師範となるために、百合之助の末弟の玉木文之進による苛烈なまでの教育を受け、10歳の時から藩校明倫館に出仕し、11歳の時、藩主毛利敬親の前で「武教全書」の講義を行い、藩主を感動させる程の秀才ぶりでした。19歳で独立の師範となり、引き続いて22歳まで明倫館で山鹿流兵学を教授しました。

諸国遊学、そして脱藩

松陰先生は萩にとどまらず、日本各地を遊歴し、勉学に励みました。20歳の時、萩藩領の日本海沿岸を防備状況視察のため旅したのを初めとして、南は熊本、北は津軽まで歩き、その総距離は1万3000キロに及びます。
 
22歳の時遊学した江戸では、佐久間象山等に師事し、天下の有志と盛んに交流を持ちました。その過程で熊本藩の宮部鼎蔵などと東北視察を計画しましたが、運悪く藩主が江戸不在で、手形を得ることが出来ませんでした。約束の出発日が来ると、約束を違えるのは萩藩全体の恥と考え、松陰先生は手形を持たないままに出発、脱藩しました。
 
東北視察から江戸に戻った松陰先生は、萩藩邸に自首、国許に送り返され藩士の身分を剥奪されました。しかしこの時藩主から10年間の遊学許可が出され、再び江戸に向います。この頃通称を寅次郎と改め、松陰という号を使い始めました。再び踏んだ江戸の地で、松陰先生は歴史的な瞬間に遭遇します。世に言うペリー来航です。

下田踏海、獄を福堂となす

嘉永6年(1853)6月3日、浦賀に来航したペリーの艦隊を目の当たりにした松陰先生は大きな衝撃を受けました。そして外国への密航を図るに至ります。翌年3月27日夜、伊豆下田沖に停泊していたペリーの艦隊に乗船した松陰先生と弟子の金子重輔は、アメリカ渡航を求めるものの、拒否され追い返されてしまいます。二人は江戸に連行され、国許幽閉が申し渡されました。 萩に帰った松陰先生は、野山獄に繋がれました。金子重輔はまもなく病死、先生はこれを深く哀しみました。先生は『孟子』の講義をするなど、乱れていた野山獄の風紀改善に取り組み、獄内の空気は一変しました。囚人達は互いに教え、学び合い、まさに獄は福堂となったのです。

松下村塾で志士を育てる

安政2年(1855)12月、獄を出て杉家宅で幽閉された先生は、家族などを相手に、獄内に引き続いて『孟子』の講義をはじめます。これに近隣の子弟が大勢参加するようになると、杉家の庭先の小屋を改装し、塾舎としました。これが現在も松陰神社境内に保存される松下村塾です。塾を主宰した松陰先生は数多くの人材を育て、その塾生達は明治維新を成し遂げる原動力となりました。

東送、不朽の留魂

安政5年(1858)、時の大老井伊直弼は幕府に反対する者達を大弾圧する暴挙に出ました。いわゆる安政の大獄です。松陰先生も安政6年(1859)5月25日、再びつながれていた野山獄から江戸に護送され、死罪を言い渡されます。同年10月27日、江戸伝馬町の獄内で殉節されました。数え年で30歳でありました。

松下村塾の変遷

開塾~玉木文之進・久保五郎左衛門の時代

この時期の主催者/玉木文之進 久保五郎左衛門
 
松下村塾は松陰先生が開かれた塾と思われがちですが、これは事実ではありません。 松下村塾は先生の叔父、玉木文之進が天保13年(1842)、現在も遺る史跡「玉木文之進旧宅」で開いた私塾に「松下村塾」と名付けたのが始まりです。幼い時期の松陰先生もこの塾に通っていました。玉木文之進が官職に就き、多忙になるとこの塾は閉鎖されます。 その後、松陰先生の外叔である久保五郎左衛門が開いた塾にこの「松下村塾」の名称が引き継がれ、この塾では吉田稔麿や伊藤博文などが学んでいました。

松陰先生、松下村塾を主宰

この時期の主宰者/吉田松陰先生
 
安政2年(1855)12月、野山獄を出て、自宅に幽囚の身となった松陰先生は、家族や親族に対して自室にて講義をされるようになります。
 
そこに近隣の子弟が数多く参加するようになり、これが発展し、安政4年(1857)11月、杉家隣の小屋を改装し、8畳1間の塾が開かれました。この時より松下村塾は事実上、松陰先生が主宰する塾となり、それまでの玉木塾・久保塾とは性格を大きく変貌させます。尊皇攘夷を旨とし、儒学、兵学、史学などを始めとした広範な学問が教授され、ただ講義を聴くだけでなく、活発な議論もくり広げられていました。
 
この塾より多くの優れた人材が巣立ち、明治日本の礎となります。

松陰先生の志を継ぐ

この時期の主宰者/馬島甫仙
 
松陰先生が安政5年(1858)厳囚の身となり、翌年東送、刑死されると、久坂玄瑞を中心として塾生達が勉強会を開くなどして活動します。しかし塾生達は多くが江戸や京都に出て尊皇攘夷運動に挺身して行き、文久元年(1861)には塾は閉鎖状態となります。 慶応元年(1865)、塾生の1人、馬島甫仙が帰郷、塾を再開させました。近隣の子弟を集め、松陰先生の思想を受け継いで教育を行いました。馬島は明治3年(1870)、山田顕義の求めに応じて大阪に行き、塾は閉鎖されます。

萩の変、玉木文之進自刃

この時期の主宰者/玉木文之進
 
明治5年(1872)、玉木文之進が退官し、松下村塾を再開させます。しかし明治9年(1876)、元参議で松下村塾出身の前原一誠が起こした萩の変に、文之進の養子、玉木正誼を始め、塾生の一部が参加しました。変は政府軍に制圧され、玉木文之進は先祖の墓前で自刃します。これにより塾はまたしても閉鎖されます。

松下村塾、永遠の名を遺す

この時期の主宰者/杉民治
 
これを引き継いだのが、松陰先生の実兄、杉民治です。明治13年(1880)、官職を退き、塾を再開させます。漢学を中心とした教育を行いましたが、明治25年(1892)、民治が萩の私立学校の校長に就任したため塾は閉鎖され、ここに「松下村塾」は、50年の歴史に幕を閉じました。